「計数的愛情」

 戦後は、愛情というものも、大分変質してきたようにおもわれてならない。少なくとも、愛情の表現が変わってきたのは、たしかである。
 手なべさげても、というのは昔の語りぐさのような気がする。それほどに、いまの女性は、物質を離れての愛情などには縁遠い存在に思える。それだけ世の中がきびしく、手なべさげてもなどといっていたのでは、暮らしていけないのであろう。かつては「清貧」という、まことに東洋的な言葉がこころよい感銘をあたえてくれたものであるが、今日では、あまり珍重されないようである。食えるか、食えないか、そのどちらかに、きわめてはっきりとわかれてしまうのだから、昔とちがって、今日の貧乏はいかにも過酷な響きをあたえるのである。
 こういう世の中になると、女性はまず第一に、いや二にも、三にも、相手の生活能力を問題にする。生活力が豊かで、こちらを満足させてくれるなら、相手がだれであろうと、なにをしていようと、いっこうにかまわないという考えかたさえ、決して少なくなさそうである。

 悪い面だけを、ことさらにとりあげて、あれこれいうのはやめてください、日本女性はそんなさもしい了見の持ち主ばかりではありません―と憤然として抗議してくる女性、私はそういう女性に数多く出会いたいと願っている。愛情もさまざまで、そのすべてが清純だというふうにはきめかねるだろうが、愛情の価値を貨幣で見積もるだけの気風に、反発をおぼえる。なんでもそうだが、極端に割り切ってしまうことを、私はおそれずにはいられないのである。
 しかし、考えてみると、愛情に対する計数的観念は、なにも戦後の女性の専売ではない。経済生活のよりどころを男性に求めるのは、昔から連綿として続いていた。このごろは、それがあまりににも目だちすぎるのであろう。夫の収入が少なくなったり、あるいは絶えてしまうと、家庭という機能はたちまち不随になってしまう。会計課長であり、庶務課長であり、また育児課長でもある妻の苦悩は察するにあまりある。奥さまという名誉ある称号も途端に消滅する。男性に対して、また愛情に対して、計数的観念が強くなるのを、いたずらに責めるわけにはいかない。私も、このことは十分にわかっているつもりである。

 欧米では、家庭を持とうとするとき、それぞれの経済生活をたもつために結婚資金を持ちより、結婚後も夫の財産、妻の財産として区別する風習がある。愛情至上主義を口に唱えているようでも、こうである。心の奥底では、結構そろばんをはじいているものと見受けられる。
 かつて、恋愛至上主義がこころよいメロディのように、わが国を流れた時代があった。物質とか、計数とかを無視し、いうならば、愛情さえあれば、カスミを食ってでも生きているような、一種の興奮状態で結婚に飛び込む男女がたくさんあらわれた。そして、結果はほとんどが失敗であった。その一方では、見合い結婚も行われた。はじめは愛情などなかったのであるが、時を重ね、年を重ねるにしたがって夫婦の間に心がかよい合い、すこやかな結婚生活をいとなみ続ける例が多い。
 結婚も、社会生活のひとつである。そういつまでも甘美なムードにひたってばかりもいられない。愛情を計数管理する近代女性の、ものの考えかたも、見方によっては進歩というべきであろう。ただ、それが露骨に、鼻の先にもあらわれてくると、寒けが感じられてくる。昔の、といっても戦前の女性の愛情は、計数的な表現をするにしても、いかにもひかえ目であったと思う。ことここにいたってはというときにこそ、柳眉を逆立てたが、なおかつ、貞淑さを失わなかったようである。
 いろいろといってみても、女性にとって、安住の地は、やはり家庭である。そこに生きがいを感じ、そこに世の幸福を見出す。女性の本質であろう。男性たるもの、それを的確につかみとって、誤ることなく、カジをとりたまえ。

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