「らしさ」ということ

 世間には「らしさ」ということがある。国の立場からいえば「日本人らしさ」。もっと身近なところでは「男らしさ」「女らしさ」。また「事業家らしさ」「政治家らしさ」「芸術家らしさ」というふうに、どこにでも「らしさ」があってよいのである。いや、なくてはいけないのだといったほうが本当なのである。それなのに、この「らしさ」が薄れ、失われつつあること、今日より、はなはだしきはない。まことに残念千万である。
 「日本人らしさ」を失うことは、いつの日か、民族滅亡の悲劇をひき起こすだろう。このごろの、若い男女の風俗、行動、ものの考えかたを、どのように理解してよいのか、とまどうことがある。断っておくが、私は風俗について、排他的な思想を持っているのではない。私たちは、明治以来、外国の風俗をつぎつぎにとり入れてきたし、そのために「日本人らしさ」がそこなわれたとは思わない。外国のニューモードをとり入れるにしても、そこに日本人的な選択が働き、日本人らしい良識が働くならば、大いに結構である。それは、少しも問題でないと思う。ただ、外国の流行だからといって、それを万能のように思い込み、ひたすら追随これつとめるような浅薄さをなげくのである。

 それにしても、流行にあまりにも敏感で、またそれを追い求める女性心理は、格別のようである。戦後、まだ日が浅いころ、街を歩いて、淑女とパンパンの区別がつきかねた経験を、たいていの人が持っていると思う。淑女がパンパンに近よったのか、パンパンが淑女に近よったのか、その辺は論のわかれるところだが、その見分けがつかぬということは、まことに不都合だった。とにかく「日本人らしさ」と「女らしさ」が薄れ、失われつつあることは、たしかだと思えるのだが……ここで、女性本質論を説くつもりはないが、私がいうところの「女らしさ」は、つまり「淑女らしさ」にほかならない。男性なのか、女性なのかが見分けのつきかねるオンナが街にあふれている姿をみると「女らしさ」への郷愁を感じるのは、私一人ではなさそうである。それは、私が古いからだろうか。どうも、そうではないような気がする。

 「男らしさ」もまた、影が薄くなってきたようである。赤ずくめの服装をした長髪族が、すこしもテレることなく歩いている姿を、ことさらに意地悪い目でみようというのではないが、それよりも、今日の若い人たちの消極さをなげくのである。私たちが青年に抱いている期待にくらべ、どうも一まわりも、二まわりも小さいものが感じられてならない。
 職業が、その人の顔形を、なんとなく、その職業らしいカラーに染めあげるのは当然のことで、やはり政治家には「政治家らしさ」があふれていてよいと思う。天職に忠実で、しかも練達なことのあらわれだと思うからである。世に大政治家と称せられる人は、すべて政治家らしい風容の持ち主である。
 芸術家も、今日ではだんだん「らしさ」がなくなってきた。時代の環境が、そうさせたのだろうが、いつか尾崎士郎氏が毎日新聞で、おなじことをいっていた。多くの芸術家が芸術の本道を離れ、次第に職人化してきたためかもしれない。いわゆる芸術家が、人生や芸術への苦悩、精進を忘れて、金もうけに心をうばわれるようになってしまったのでは、その人々の風容が、商人的、サラリーマン的になるのも、いたしかたない。

「事業家らしさ」が少なくなったのも、そうである。資本と経営の分離という、結構な時代になって、サラリーマン重役の花ざかりであるが、いわゆる事業家魂というか、根性が次第に色あせてきた感じがしてならない。企業の公共性ということが、このごろしきりに唱えられるが、事業家自身、本当に、そう考えているもなく、企業の公益性を全身で感じとっているはずだと思う。戦後二十数年、うたかたのように浮かんでは消えた企業、事業家は数えきれない。一発屋といってもよいし、その考えかたはヤミ屋とほとんど変わるところがなかったが、いまなお、そういう事業家が決して少なくない。その顔形が事業家よりも、むしろ「ヤミ屋らしさ」に近づいているのは、考えてみれば、少しも異とするにたらないようである。

 近代化が急速に進められる半面で、復古調ということが、よくいわれる。時計の振り子は右にばかり動くのではなく、左へも同様に動くのだから、近代化と復古調が並び立っても不思議ではないどころか、あたりまえといってよい。ただ、ひとこと、ものをいわせてもらえるなら、形だけの復古ではなく、精神的にも、温故知新の方向をめざしてもらいたいものである。「らしさ」の復活を、私は心から願わずにいられない。

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