横目でみたアメリカ
「日本の小ものは米国で大物」

 ある朝、目がさめてみると、私は突然「大もの」になっていた。ゴーゴリの小説「鼻」の主人公が、目がさめて自分の鼻がなくなっていることに気がついた、ということとはたいへんな違いである。
 ロサンゼルスをたって、ニューヨークのホテルに着いたとき、ボーイが持ってきてくれた手紙のなかに、ロサンゼルスに住む友人からの一通があった。それには、こう書いてあった。

 「その来たるや風のごとく、その去るや魔のごとし。昨夕の新聞に、君の記事が出ていた。君がロサンゼルスで会った実業家や新聞記者は、君からきわめてよい印象を受けたそうである。彼らは、君を“大もの”(BiG shot)だといっている。日本の少壮実業家のなかに、君のごとき“大もの”“傑物”を見出したことを、むしろ以外に感じているようである。(中略)実に多忙な五日間だったが、ライオンのごとく行動する君には、それくらいなんでもないことだろう。将来、かならず大をなすであろうほどの男は、やはり常人と異なっているものだと思う。精力的で、疲れを知らぬだけでも、たいしたものだ。(中略)
 ダン・ジョーンズ氏(UP記者)が、フレスノの神宮氏のところにテレタイプの印字紙を持ってきてくれたという。フレスノの地方紙には、君の記事が掲載された由である。これで、全米およびUPと契約している日本の新聞社にも、すべてそのテレタイプが送られたのである。かくのごとく、大通信社の通信網にのこることは、まさに偉とするにたり、大いに自信を持ってよいと思う。自重自愛を祈り上げる。(中略)
 「本日、神宮氏からの連絡によると、ロサンゼルス・ミラー紙に掲載されていたそうだ。ミラー氏は、当地方最大の夕刊紙である。(下略)」
 以上のような内容で、どうも私にはほめすぎの感があり、引用するにも気がひけるのだが、ついでにつけ加えると、UPの原稿は、私を“卓越した日本の実業家”と紹介していた。日本では“小もの”の私も、ひとたび太平洋を越えてアメリカに行くと、にわかに“大もの”になっていた。目をパチクリしたのは、ご当人の私なのであるが……
 これは、いったいどういうことなのであろうか。なにを意味しているのであろうか、その判断はとにかくとして、私はUP記者やアメリカの知名実業家たちとの会見を思い出してみることにした。

 ロサンゼルスのビルトモア・ホテルでカクテル・パーティを催したのだが、当夜はUPのダン・ジョーンズ記者、ミラー紙のブリストン経済部長、パシフィック貿易新報マコーミック社長、商務省ロサンゼルス地方事務局ジョリス貿易課主席、ライオン社ハスウェイ副社長、映画「東は東」に出演した俳優フィリップ・アーン氏など、にぎやかな顔ぶれが集まった。パーティが終わってから、ジョーンズ氏が中共との貿易について話してくれと切り出した。私はビジネスマンだから政治的な話はご免だと断ったのだが、先方は勘弁してくれない。
「あなたは東京市民でしょう」
「もちろんそうです」
「それならば、東京市民としての意見を聞きたい」
「東京の一市民としての私見ならば話しましょう。日本は、戦後半分になった領土に、八千万人がひしめき合っている。だから、なんとかしなければいけないのですが、それにはどんな方法があるでしょうか。輸出以外にはないのです。その輸出が、戦前とちがい、たとえば絹織物はほとんど輸出されていません。香港経由でさえ、いまは途絶しています。アメリカは“特需”を出してやるといいますが、それもわれわれにいわせれば出血受注にひとしい。しかも、アメリカは関税障壁を高くして、日本商品を入れまいとしています。これで、果たして日本人は食っていけるでしょうか。貿易がなければ食っていけないのですから、相手が中共だろうと、どこであろうと、選んでいられません。中共との貿易が気に入らないというなら、日本人が食っていけるだけの注文を出してほしいのです。」

 こんなふうに話したまでであるが、ジョーンズ氏はフランクでよろしいという。これまで、日本人がこれほど率直に意見を述べたのを、聞いたことがないといった。
 私は、さらにS社支配人と問答を重ねた。
「朝鮮戦争のおかげで、高い税金に苦しめられています。」
「そうでしょう。かつて日本が戦った日清、日露両戦役を合わせたほどのスケールですからね。それにしても、アメリカがもう少し早く日本を理解していたら……と、残念に思います。」
「あなたの言葉が正しいのかも知れませんね。」
「私は、ここで戦争論議をするつもりはありませんが、戦争とは国と国とのケンカでしょう、一人と一人のケンカでも、理屈は双方五分五分なのですから、どちらかゆずらないかぎり、腕力沙汰になるのはあたりまえといってよいでしょう。」
「それも、正しい答えといえるかもしれません。」
 これらは、ほんの一コマにすぎないが、私が接したアメリカ人には、思うままを、むしろズケズケと口にした。格別、作為的にしたのではなく、私の生地(きじ)を丸出しにしたにすぎないが、そのことがアメリカ人の好感を得たというなら、私にとって、実は以外でさえあった。

 民間経済使節という肩書きは、私のあずかり知らぬところなのだが、いつの間にか、そう名づけられたようである。日本の中小企業者で、アメリカ人と腹を割って語り合ったのは、私が最初だそうで、先方も大いによろこんでくれたのはしあわせだった。ズケズケいうのも、ときには好結果をもたらしてくれるものである。念のため、つけ加えておくが、私はアメリカにいったからといって、よそゆきの言動をとったわけではなく、日本で繰返してきた日常のふるまいを、そのまま続けただけのことである。
 日本での私は“小もの”扱いされてきた。腹にあることを、かくしだてもせずしゃべると、あいつは軽いとか、人間ができていないとか、いわれるらしく、それが“小もの”扱いされるゆえんなのかもしれない。しかし、アメリカ人はいわゆる腹芸には関心がなく、なにごとも割り切って考え、割り切って行動する。東洋的な神秘などというものは、彼らに通用しないばかりでなく、かえって気味悪さを感じさせるもののようである。
 日本人の“小もの”で、多分にオッチョコチョイで、そのうえ型破りの私をみて、あるいは「日本人にも、こんなヤツがいたのか」と、いわば珍種扱いされたのであろう。
 私は、ここで友人の手紙を、もう一度読み返してみた。間違いなく“大もの”と書いてある。日本の“小もの”“珍種”が、アメリカでは“大もの”になり、東洋の小羊、海を渡ってライオンとなる。ところ変われば品変わるということわざは、かくのごときをさすのであろうと、苦笑せざるをえなかったものである。


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