「二重の被害」

 時間と約束は守らなければいけない、私たちは、子供のときから、こう教えられてきた。だから、これだけは守っていこうと、かねがね思い続けているのであるが、そのために、
「うるさい男だ」
「やかまし屋だ」
という非難まじりの声を受けるのは、一体どうしたことであろう。
 イギリスでは、時間を守ることの美しさを“王者の徳”とたたえているが、わが日本では、それがときどき通用しないのである。時間どおりに宴席へいこうものなら、いやしい男とそしられることさえある。貸した金を約束の日時に取りにいけば、あいつはよほど困ってきたのかもしれぬと、痛くもない腹をさぐられる始末である。たとえ酒席であろうと、約束したことは守らなければいけないのが美徳と思い込んできたのであるが、世間は、かならずしも、そうではないようである。だから、私は戸惑いさせられること、たびたびである。

 ひと口に約束といっても、それはさまざまにわたっている。取引上の約束、友人との約束、家庭のなかの約束、そのひとつひとつを約束どおりに実行すると、相手が不思議な顔をするのである。まれには、おしかりをこうむることもある。こちらも、つい腹が立つから、約束ではないかと詰問すると、約束かもしれないが、あれはホンの軽い気持ちで……と取り合ってくれない。双方の受け取りかたが、こうもちがっていては、一人相撲でどうにもならない。そこで、もう一度いい返すと、きみはいくつになってもカドが取れないと、逆に冷笑を浴びせられる。

 夏目漱石が京都に遊んだとき、ある婦人から著書を懇望され、
「安請け合いして、実行しないような男と誤解されたくない」
との手紙をそえて、約束どおり、その著書をおくったということが、漱石の書簡集にある。相手がだれであろうと、約束は約束である。これに強い共感をおぼえたのである。こういうきびしい性格を、よく明治的というそうである。私は大正生まれであるが、これが明治的というなら、そう呼ばれても結構である。
 約束を守るために仕事を繰合わせる。そして、その結果が冷笑、非難となってはね返ってくると、私は二重の被害者なのかもしれない。まことに腹だたしいことではあるが、しかし、私は変えるつもりはない。私が変わらずに、世間が変わってくれることを、ひたすら念願するだけである。

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