「節分の疑問」

 古い行事や伝統の風俗で、次第にその姿を消していくものがいくつも数えられる。姿を消さぬまでも、形を変えたものも随分ある。節分の行事も、そのひとつであろう。
 私が子供のころになじんだ節分は、豆をまくことに、なんの疑いも持たなかったし、祖母がマスに手を入れて、自分の年の数だけ豆をつかめば縁起がよく、それをたべると長生きするといったことにも、少しもあやしむところがなかった。

 節分の日だった。私が鬼に豆をぶつけてやるのだというと、子供は、どこに鬼がいるのか、鬼とはどんなものかと問うてきた。鬼はいる、人の心のなかに……と私は答えた。人間というものの底にひそむ悪魔、それが鬼で、体のなかに巣食う虫のようなものだというと、子供は声をたてて笑い出した。
「それでわかった。おとうさんの体には怒り虫がいるんだね」

 そして、怒り虫征伐だといって、大声をあげながら豆をまき散らした。そのあとは、一家がめいめいの体のなかにいる虫の名をいい合い、豆まきに興じた。こうして、まことに奇妙な、わが家の節分が行われたのである。

 少年時代、伊藤仁斎の話しをきいたことがある。仁斎は、
「豆をまいたところで、なんの害もない。害のないことなら、世間にしたがうがよい」
といったという。わが家の豆まきをみながら、私は、ふと仁斎の言葉に反発を感じた。害がなければ世間にしたがえというのは、不条理と知りつつ妥協することではなかろうかと。こんな妥協が、実はもっとも害があるのではなかろうか、それには長いものにはまかれろにも通じるように思えたからである。不条理には、あくまで立ち向かうことこそ、大切なのではないだろうか。
 「負うた子に教えられて、浅瀬を渡る」ということわざがあるが、私は新しい時代の教育というものについて考えさせられた。すべてを合理的に割り切ることは不可能だという。そうかもしれない。しかし、はじめから不可能と決めて、そのための煙幕として利用されてきたこともあるのではなかろうか。私は私なりに、合理的に、ものごとを割り切っていきたいと思う。それに失敗し、人の冷笑を受けても、私は満足なのである。


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