ほっちゃれ社長

 北海道に“ほっちゃれ”という言葉がある。たびたび北海道をたずねているうちに、いつか聞きおぼえたのであるが、北海道なら、どこでも使われているというものでもないらしい。おもにアキアジ(サケ)がとれるところで、使われているようである。産卵をすませて、いわばお役ご免となったサケを、そう呼ぶのだそうである。もう生きていることもあるまいと突きはなされているようで、そう思うと、ほっちゃれという語感にも、なんとなく哀愁が感じられてならなかった。

 ところで、ほっちゃれは、サケばかりではなさそうである。ほっちゃれ亭主もあろうし、ほっちゃれ女房もいるだろう。ほっちゃれ政治家も、決して少なくなさそうである。それにもましてほっちゃれ社長の、なんと多いことであろう。

 サケはほっちゃれと名づけられてからでも、食用としての役は立派に果たしてくれるし、それだけの価値を持っている。いわゆるツブシがきくのである。そこへいくと、煮ても焼いても、とうてい食えぬシロモノがほっちゃれ社長であろう。もっとも、大会社のほっちゃれ社長なら、高額の退職慰労金をいただいて悠々自適ということもできようが、中小企業のそれは、なかなかそうもいかない。とりわけ、会社が倒産、行き詰まって、そのために、社長もやむなくほっちゃれの身となった場合には、苦しみのなかに投げ出されたようなものである。悲哀というほかない。

 私の友人で、武運つたなくほっちゃれの身となった社長から、
「あくせくせずに、きみも早く手をあげてしまいなさい。その方が気が楽だよ」
といわれたことがある。ご自身、決してそんな心境にないことは、私にもわかりすぎるほどわかっていたのであるが、反論する気持ちにもならなかった。
 人は、だれでも信念と向上意欲を持っているものだし、まして一度は中小企業とはいえ、経営の最高責任者であった人が、ほっちゃれに甘んじ、それをよろこぶはずがない。
 事業というものには波がある。また、事業の価値は、それを築きあげた人が、死ぬまぎわになって、はじめて知るものだという。それまでは、ほっちゃれになりたくないものである。それにしても、人生の中途で、ほっちゃれになる人が多すぎる気がする。
 ほっちゃれの悲哀は、サケだけにとどめておきたい。

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